過去を証明できないときに起きる屈辱
過去に本気でやってきたことがあるのに、
それをうまく伝えられないときがあります。
言葉にして説明することはできる。
でも、その言葉ではどうしても伝わらない。
そういう場面に、何度も出くわしてきました。
※これは、
本気でやってきた過去を軽く扱われて、プライドを踏み潰された経験がある人に向けて書いています。
自分は過去に、バンド活動にすべてを注いだ経験があります。
時間もエネルギーも、ほとんどをそこに使ってきました。
実際にギャラをもらって演奏していたこともあり、決して遊びでやっていたわけではありません。
正直、地獄みたいな時間もありました。
金もない、将来も見えない、それでも続けるしかなかった。
メンバーとの関係もきれいなものじゃない。
本来味方であるはずのメンバーに、刃を向けられるようなこともあった。
それでもステージに立って、ドラムを叩き続けてきた。
ただ、今はそのバンドはもうありません。
形として残っているものはほとんどなく、
過去のことは、言葉で説明するしかない状態です。
そんな状況の中で、どうしても忘れられない出来事がありました。
それは、バンドがなくなったあとに入った職場で出会った、年下の男とのやり取りです。
当時の自分は、外から見ればただの「いい歳したバイト」。
それだけを見て、最初から軽く見られているのは分かっていました。
正直、その時点でもう腹の底ではずっとムカついていました。
そんな相手に、自分の過去を話すことになりました。
本当は話したくなかった。
こんなやつに、自分が何をやってきたかなんて言いたくなかった。
でも、職場でやっていく以上、ある程度は自分のことを話さないといけない。
生活のために、関係を壊すわけにもいかない。
だから、仕方なく話しました。
そのときのやり取りは、今でもはっきり覚えています。
自分なりに、これまで必死でやってきたことを、どうにか言葉にして伝えようとしていました。
何をやってきたのか。
どれだけの時間とエネルギーを使ってきたのか。
そして、なぜ今こういう状況にいるのか。
簡単に伝わる話じゃないと分かっていながら、それでも話しました。
そして、
そのときにそいつから返ってきた言葉が、
「俺も昔、部活でバスケやっててんやん」
でした。
は?って思いました。
本気で。
そんなんちゃうやろ、って。
クラブ活動の延長みたいな話と、同じレベルで並べられるようなもんちゃうやろ、って。
こっちは、他の全部削って、しがみつくように続けてきたんです。
遊びじゃないし、単に良い思い出なんかじゃない。
自分の中では、あの時間は今でも切り離せない現実です。
それを、学生時代の思い出話と同じようなものとして扱われる。
しかも、こっちの話をちゃんと理解したうえでじゃない。
ただ表面的な言葉だけ拾って、自分の知ってる範囲に当てはめて終わり。
そもそも最初から、こちらを認める気がなかったのかもしれません。
だから、理解しようとする前に、
自分の知っている範囲に押し込んで、同じレベルの話として終わらせた。
その瞬間に感じたのは、
悔しいとかじゃなくて、屈辱でした。
でも、それを覆す手段がない。
バンドはもうない。
今の自分には、何も証明できるものがない。
だから何も言えない。
「違う」って言っても伝わらないし、説明すればするほどズレていく。
結局、
→ 本当のことを言ってるのに、嘘みたいに扱われる
この状態になる。
これが本当にきつかったです。
しかもその相手とは仕事で関わり続けないといけない。
毎日顔を合わせる。
舐められたまま。
その状況が耐えられなくて、何度も環境を変えました。
結果的に、仕事を転々とすることにもなりました。
今でも思います。
過去に何をやってきたかよりも、
→ 今どう見えるかで全部判断される
そして、
→ 証明できない過去は、なかったことにされる
この感覚は、簡単には消えませんでした。
今振り返ると、このときに感じていたものは、
→ 分かってもらえなかった悔しさ
ではなく、
→ 過去を証明できない状態で評価されることの屈辱
だったのだと思います。
過去にどれだけのものを注いできたとしても、
それが今ここに形として残っていなければ、他人にはほとんど伝わらない。
そして、人は見えているものをもとに判断する。
これは当たり前のことなのかもしれません。
ただ、それでも、
→ 自分の中に確かにあったものが、なかったことのように扱われる感覚
これだけは、簡単に受け入れられるものではありませんでした。
この感覚をどう扱えばいいのか、
正直なところ、今でもはっきりした答えは出ていません。
ただ一つ言えるのは、
過去に本気でやってきたことがある人ほど、
この問題にはぶつかりやすいのかもしれない、ということです。
もし同じような感覚を持ったことがある人がいるなら、
それは決しておかしいことではないと思います。
同じような経験をしたことがある人には、
この感覚が何を意味しているのか、説明しなくても分かると思います。
この感覚は、簡単に割り切れるものではありません。
ただ、それでも一つだけ言えるのは、他人にどう扱われたとしても、自分の中にあった事実まで消えるわけではない、ということです。
→ このことについては、こちらでも書いています。



