反芻してしまう苦しさは、ただの弱さではないのかもしれない
最近、ふと思いました。
自分は昔から、どうしても考えすぎてしまう人間なんだと。
過去のことを何度も反芻してしまう。
人の言葉を引きずってしまう。
「今、自分は本当にこれでいいのか」と考え続けてしまう。
正直、この性質にかなり苦しめられてきました。
もっと割り切れたら楽なのに。
もっと普通に生きられたら楽なのに。
そう思ったことも何度もあります。
でも最近、少しだけ見え方が変わってきました。
自分が苦しみながら考えてしまうこと。
反芻してしまうこと。
存在について考えてしまうこと。
それ自体が、もしかしたら自分の“役割”や“表現”に繋がるのかもしれない。
そんな感覚を持ち始めています。
世の中には、
- 成功者の言葉
- 強い言葉
- 即効性のあるノウハウ
- 正解を提示する発信
がたくさんあります。
もちろん、それらに救われる人もいると思います。
でも、自分自身は、「こうすれば正しい」と強く断定されるほど、逆に苦しくなってしまうことがありました。
答えを与えられることで楽になるというより、「今の自分の感覚を、そのまま整理したい」と思うことの方が多かったのかもしれません。
だからこそ、自分が発信するときは、
「こう生きるべき」
と答えを押し付けるよりも、
隣で一緒に考える側でいたいと思っています。
苦しみながら生きている人と、
同じ目線で考えていけるような文章を書きたい。
そして、その感覚は、多分ブログだけではなく、
普段の仕事の中でも、自分が大切にしたいことなのだと思います。
普段の福祉の仕事でも、自分は利用者さんに対して、どこか“対等でありたい”という感覚があります。
もちろん、支援には責任も距離感も必要です。
理想論だけでは成立しない仕事だということも理解しています。
でも、自分自身も生きづらさや苦しさを経験してきたからこそ、
「問題を抱えた人」
としてではなく、
「同じ人間」
として相手を見る感覚を、大切にしたいと思っています。
そして、多分それは、ブログでも同じなんだと思います。
自分は、綺麗に整理された人生を歩いてきた人間ではありません。
今も迷っています。
今も不安があります。
反芻もします。
それでも、自分なりに意味を探しながら生きています。
だからこそ、
“途中にいる人間だから書ける言葉”
があるのかもしれません。
“まだ途中の自分が発信すること”については、以前こんな記事も書きました。
最近は、
「辛い時間が、ただ辛いだけで終わらない」
という感覚を少しずつ持てるようになってきました。
苦しみを美化したいわけではありません。
でも、その苦しみを通して見えた感覚を、言葉として残すことはできる。
そして、その言葉によって、
誰かが自分の感情を整理できるかもしれない。
そう考えると、
これまでずっと自分を苦しめてきた感受性や反芻も、
ただの弱点ではなかったのかもしれない。
そんなふうに、少しだけ思えるようになってきました。



